時代を読む・内山節 — 不信任が独裁を生むジレンマ
現在の国家は、国民に信任されているのだろうかと思うときがある。政権を批判するというレベルを超えて、国家自体が信任する必要のないものになってきているのかもしれない。
たとえば欧州連合(EU)離脱をめぐる、英国の国民投票をみてみよう。一般的には、高学歴でグローバルな世界を知っている若い世代が残留を支持し、移民の流入など目の前でおきていることに反応した人たちや高齢者が、離脱を支持したといわれている。確かに世論調査では、18歳から24歳の世代は7割以上が残留を支持し、逆に65歳以上では6割近くが離脱を支持していた。ところが投票率をみると24歳以下は3割台だったという調査結果もあり、65歳以上だと8割近くになっている。
この数字をみていて疑問がでてくるのは、高学歴で全体的なことを見通すことができるとされている若い世代が、なぜ低投票率なのかということである。今回の国民投票では、どちらが勝つにせよ僅差であることはわかっていた。それなら状況を見通せる残留支持の若い世代が、もっと投票していてもよいはずである。だがそうではなかった。
このような結果が出てくるのは、若い世代にとっては、国家がそれほど重要なものではなくなっているからではないだろうか。実際欧米のビジネスマンやIT技術者のようなエリート層は、国境を超えて仕事をしている。自分の所属する国がすべてではないのである。しかも資産をふやす過程では、パナマ文書からも垣間見られるように、タックスヘイブン(租税回避地)を使って、国境を超えた資産運用がなされたりする。要するに自分の活動の場にとっては、自国がどうなろうとも、そのことは絶対的な重要性をもたないのである。
英国の国民投票は、中下層の大衆の反乱によって離脱が決まったと解説されているが、実際には、エリート層とそれに同調する人たちの反乱が起きているのではないだろうか。だがそれは、かつてのような社会全体の改革を求める反乱ではない。国のあり方は自分にとっては重要ではないという「反乱」がすすみ、それに同調する人たちの裾野が広げられていく。
そういう動きが先進国では一般化してきている。米国の大統領選挙はニュースでみる限り盛り上がっているようにみえるが、最近の投票率は大統領選で50%台、国会議員の選挙だと40%前後である。
だがそうなればなるほど、組織票をもっているところが選挙で勝ち、「民主的な制度の下での独裁」がすすんでいく。人々の意識のなかで国家の価値が低下し、信任する必要性のないものになっても国家は存在し、その政策によって私たちは影響を受ける。
人々の意識が離れていくというかたちでおこっている国家の空洞化が、逆に独裁的な政府を成立させるのである。直視しなければいけないのは、現代世界にひろがっているこのジレンマなのではないだろうか。
おそらくこの問題の解決は、日常的に関われる世界に権限を委譲する以外にはないだろう。地方分権、地域主権を徹底する道である。とともに、空洞化し、独裁化していく国家と向き合う作法を、私たち自身も確立しなければならなくなっている。 —(哲学者、東京新聞2016年7月10日)
太郎の国際通信 — 最高裁決定が招くもの
「日本の最高裁がイスラム教徒の無差別監視を容認」
先月末からこんな見出しの記事が、世界のマスコミに掲載され始めた。
そのきっかけとなったのは中東カタールの国際テレビ局「アルジャジーラ」の報道のようで、先月28日に伝えたニュースが各国で引用され広がっている。
■無条件監視を正当化
その一つ、英国のネット新聞「インディペンデント」を読むと、2010年に警察の文書が漏えいし日本ではイスラム教徒に対する調査が全国的に行われていることが明らかになった。東京ではイスラム教徒の礼拝所やイスラム教徒向けのレストラン、イスラム教関連の組織が監視されているとしている。
こうした情報収集は、プライバシーの侵害であり信教の自由を侵し、憲法違反と日本人のイスラム教徒が訴えていたが、最高裁は上告を棄却し警察の行為は正当化されたというのだ。
ここまで読むと思い当たることがあった。
警視庁の国際テロ捜査に関する文書がインターネット上に流出し、その対象になったイスラム教徒が東京都と国に損害賠償を求めた訴訟で、5月31日最高裁が上告を棄却し東京高裁判決の9020万円の賠償が確定したものだった。
情報収集の是非については東京高裁が「テロ防止のためやむを得ない」と判断したのを最高裁が追認したわけだが、日本国内の関心は賠償問題にあったようで、この点はあまり報道されなかったように思う。
■相当思い切った判断
世界各地で続発するテロ事件とイスラム教との関係については、オバマ米大統領が「イスラム」という言葉を使うことを拒否しているように悩ましい問題だ。そうした中で示された日本の最高裁の決定は、相当思い切った判断と海外では受け取られたようだ。
「インディペンデント」の記事も「イスラム教徒は何も悪いことをしなくとも、ただ恐怖心から排撃される」と米政府の情報収集のあり方を告発したエドワード・スノーデン氏の談話を引用して批判的な調子で貫かれている。
しかし、記事に続く読者の書き込みにはまったく逆の反応が見られる。
「日本、よくやった」
「トランプは正しい」
「世界に常識が通用する国があったのは素晴らしい。他の国々も倣うべきだ」
■テロの直接の標的に
その一方で、この記事はイスラム教の世界にも当然伝わったと考えるべきだろう。日本人はイスラム教徒に寛容という彼らの常識は「日本人はイスラム教徒を敵視している」と変わるかもしれない。
これまで日本人は、過激派のテロ事件に「巻き込まれる」ことを懸念していたわけだが、これからはテロの「標的」になることを心配しなければならなくなるかもしれない。 —(木村太郎・ジャーナリスト、東京新聞2016年7月10日)
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論説委員のワールド観望 — もろ刃の剣の中国身分証
■一元管理の徹底
中国では「居民身份証」といわれる身分証が、部屋賃貸、口座開設、航空機や高速鉄道利用など生活のあらゆる場面で必要とされる。一方、この身分証には、終身不変の18桁の公民番号が付けられ、国は戸籍や経歴を含むあらゆる個人情報を一元管理できる。日本でも通知が始まったマイナンバー。社会保障や納税での利便性がうたわれるが、情報統制大国の実情を重ね合わせて将来を展望すれば・・・。
中国で身分証による管理は、1985年施行の居民身份証条例により始まった。法改正などを経て、現在は16歳以上の公民はICチップ内蔵のカードの所持を義務づけられている。戸籍を管理する公安当局が付ける18桁の番号は、出身地、生年月日、個人識別番号などを意味する。
中国ではパスポートより身分証が圧倒的に重視され、ホテルの宿泊にも必要だ。日本駐在経験の長い中国紙記者は「日本では搭乗券や切符だけで飛行機や新幹線を利用できるので驚いた。本人かどうかまで確認できず、テロ対策は十分と言えるのか」と話す。裏返せば、身分証による個人情報の一元管理はそれほど徹底しているともいえる。
■父母のような国
思わぬ業界が徹底管理の恩恵に浴している。中国では2009年ごろから日本の消費者金融にあたる「少額貸款業」が認められたが、上海の業者は「50万元(約1千万円)以下の貸し付けなら担保不要で身分証だけで応じることもある」と話す。「身分証情報を押さえておけば、まず踏み倒されることはなく、どこへ逃げても捕まえられる。最悪の場合は家族から取り立てればよい」と余裕の構えだ。
身分証がなくて途方に暮れるケースも。中国紙によると、日本人と結婚した中国人女性が、国籍はそのままなのに、地元当局から「日本の永住資格と身分証を重複して持つことはできない」と誤った情報を伝えられ、身分証を放棄した。その後、中国ではパスポートではホテルに宿泊できず、不便な生活の連続に「これでは死人と同じ」と嘆いている。
上海交通大学の副教授(54)は「いかなる制度にも解決すべき課題は生じる。居民身份証では個人情報保護や人権侵害など克服すべき点もある」と認めるが、巨大な人口を持つ中国で身分証による管理の必要性と有効性を強調する。
上海市の女性(33)は「国は私たちの父母のようなものであり、情報をすべて把握されるのには慣れっこです。でも、悲哀も感じます」と複雑な胸の内を明かした。
■衣の下から鎧も
日本のマイナンバー制度に目を移せば、法制定時には税金、社会保障、災害関連の3分野に限定されていた行政の利用範囲が、金融分野に拡大され、医療、戸籍事業へとなし崩しにされる可能性もはらむ。
中国の古典には「信なれば即(すなわ)ち民任ず」という。お上の言行が一致して初めて民は政治を任せられるが、管理強化へ政府の「衣の下の鎧」が垣間見えるようでもある。「国は父母のようなもの」と安穏としていられるだろうか。 —(加藤直人=上海駐在、東京新聞2015年11月3日)
英国EU離脱
「海の時代」の幕引き — 水野和夫
6月23日、イギリス国民は欧州連合(EU)からの離脱を選択した。想定外の結果に金融・資本市場は激しく動揺した。中でも円は安全資産だとの思惑で一時1ドル=99円台へ急騰し、2年7ヵ月ぶりの円高水準となり、アベノミクスも振り出しに戻った。株式市場も同様で、過剰資本を抱える日本は円安と株高がリンクしているため、日経平均株価は一日で1286円も下落した。
EUが「Europian Union」の略であることから、いつヨーロッパという言葉が用いられるようになったのか、そして、なぜイギリスの離脱が大問題なのかという点を考えると、EUの将来が見えてくる。
「西ローマ帝国が解体してヨーロッパが出現した」(フランスの歴史学者マルク・ブロック)ように、ヨーロッパは地中海世界と北部ヨーロッパが一体化する過程で徐々にその姿を現してきた。
ヨーロッパという概念が最初に姿を現したのは、800年前後である。現在のドイツ、フランス、イタリアの領土を支配していたカール大帝のフランク王国である。ヨーロッパとは中世の創造物であって、イギリスはその概念には含まれていない。
歴史上初のヨーロッパ形成体であるフランク王国は、アラブ人が地中海を閉鎖したことで崩壊した。イギリスのEU離脱の原因の一つが移民問題であり、現在のEUも同じ問題に直面している。
世界史は「陸と海のたたかい」であると定義したのはドイツの政治学者カール・シュミットである。市場を通じて富(資本)を蒐集(しゅうしゅう)するのが「海の国」であるのに対して、「陸の国」は領土拡大を通じて富を蒐集する。どちらも「蒐集」の目的は社会秩序維持のためである。
■大陸統合 脅威に
近代をつくったのはオランダ、イギリス、アメリカでいずれも海の国である。海の国が最も恐れるのは、イギリスの地政学の大家マッキンダーいわく、世界で随一の大陸であるユーラシアが一体化することである。ユーラシア大陸は大き過ぎて海から牽制できないからである。
イギリスが離脱を決めた直前の17日、ロシアのプーチン大統領はサンクトペテルブルクで開いた国際経済フォーラムの演説で、「ユーラシア経済同盟」(旧ソ連5ヵ国で構成)に中国、インドを加えて「大ユーラシア経済パートナーシップ」構想を打ち出し、同時にヨーロッパ諸国にも参加を呼びかけた。
フランスの歴史家L・フェーブルによれば、ロシアもヨーロッパである。イギリス国民の選択は、無意識のうちに自ら「海の時代」に幕を引いたことになる。米大統領選でも民主、共和両党候補ともに環太平洋連携協定(TPP)の見直しを訴えており、21世紀は「陸の時代」に向かっている。グローバリゼーションによって地球が一つになったかにみえたまさにその瞬間、逆向きの力が作動したのである。
空間が拡張していれば利潤率は向上する。逆に縮小に向かえば、採算は悪化する。EU第二の経済規模のイギリスの国民投票で離脱が過半数を占めた途端、ドイツ10年国債利回りがマイナスとなったのはEU経済圏が縮んだからである。金利を厳禁した中世への回帰である。
海の国・日本はすでに2016年2月9日から10年国債利回りはマイナスとなっている。日本と、陸の国・ドイツに共通するのは過剰資本である。過剰資本の国が追加投資すれば、赤字になるか、あるいは既存の資本が不良債権化する。
■闘いの終わり
もちろん、人類史上初のユーラシア統合が成功すれば、ユーラシア諸国の利回り(利潤率)は上昇するであろう。しかし、中国は日独以上に過剰な資本(生産設備)を抱えており、中国は輸出シェアを高めることでしか、持続的成長ができない。それは日本企業の投資採算を悪化させ、日本のマイナス金利を拡大させる。
逆に中国の過剰資本がフル稼働しなければ、中国の金利がマイナスとなる。そうなれば、「蒐集」をめぐる陸と海のたたかいは終わり、「歴史が終わる」ことになる。1992年のイデオロギー闘争としての「歴史の終わり」(アメリカの政治学者フランシス・フクヤマ)宣言が、別の意味で実現することになる。 —(法政大教授、東京新聞2016年7月19日夕刊)
現在の国家は、国民に信任されているのだろうかと思うときがある。政権を批判するというレベルを超えて、国家自体が信任する必要のないものになってきているのかもしれない。
たとえば欧州連合(EU)離脱をめぐる、英国の国民投票をみてみよう。一般的には、高学歴でグローバルな世界を知っている若い世代が残留を支持し、移民の流入など目の前でおきていることに反応した人たちや高齢者が、離脱を支持したといわれている。確かに世論調査では、18歳から24歳の世代は7割以上が残留を支持し、逆に65歳以上では6割近くが離脱を支持していた。ところが投票率をみると24歳以下は3割台だったという調査結果もあり、65歳以上だと8割近くになっている。
この数字をみていて疑問がでてくるのは、高学歴で全体的なことを見通すことができるとされている若い世代が、なぜ低投票率なのかということである。今回の国民投票では、どちらが勝つにせよ僅差であることはわかっていた。それなら状況を見通せる残留支持の若い世代が、もっと投票していてもよいはずである。だがそうではなかった。
このような結果が出てくるのは、若い世代にとっては、国家がそれほど重要なものではなくなっているからではないだろうか。実際欧米のビジネスマンやIT技術者のようなエリート層は、国境を超えて仕事をしている。自分の所属する国がすべてではないのである。しかも資産をふやす過程では、パナマ文書からも垣間見られるように、タックスヘイブン(租税回避地)を使って、国境を超えた資産運用がなされたりする。要するに自分の活動の場にとっては、自国がどうなろうとも、そのことは絶対的な重要性をもたないのである。
英国の国民投票は、中下層の大衆の反乱によって離脱が決まったと解説されているが、実際には、エリート層とそれに同調する人たちの反乱が起きているのではないだろうか。だがそれは、かつてのような社会全体の改革を求める反乱ではない。国のあり方は自分にとっては重要ではないという「反乱」がすすみ、それに同調する人たちの裾野が広げられていく。
そういう動きが先進国では一般化してきている。米国の大統領選挙はニュースでみる限り盛り上がっているようにみえるが、最近の投票率は大統領選で50%台、国会議員の選挙だと40%前後である。
だがそうなればなるほど、組織票をもっているところが選挙で勝ち、「民主的な制度の下での独裁」がすすんでいく。人々の意識のなかで国家の価値が低下し、信任する必要性のないものになっても国家は存在し、その政策によって私たちは影響を受ける。
人々の意識が離れていくというかたちでおこっている国家の空洞化が、逆に独裁的な政府を成立させるのである。直視しなければいけないのは、現代世界にひろがっているこのジレンマなのではないだろうか。
おそらくこの問題の解決は、日常的に関われる世界に権限を委譲する以外にはないだろう。地方分権、地域主権を徹底する道である。とともに、空洞化し、独裁化していく国家と向き合う作法を、私たち自身も確立しなければならなくなっている。 —(哲学者、東京新聞2016年7月10日)
太郎の国際通信 — 最高裁決定が招くもの
「日本の最高裁がイスラム教徒の無差別監視を容認」
先月末からこんな見出しの記事が、世界のマスコミに掲載され始めた。
そのきっかけとなったのは中東カタールの国際テレビ局「アルジャジーラ」の報道のようで、先月28日に伝えたニュースが各国で引用され広がっている。
■無条件監視を正当化
その一つ、英国のネット新聞「インディペンデント」を読むと、2010年に警察の文書が漏えいし日本ではイスラム教徒に対する調査が全国的に行われていることが明らかになった。東京ではイスラム教徒の礼拝所やイスラム教徒向けのレストラン、イスラム教関連の組織が監視されているとしている。
こうした情報収集は、プライバシーの侵害であり信教の自由を侵し、憲法違反と日本人のイスラム教徒が訴えていたが、最高裁は上告を棄却し警察の行為は正当化されたというのだ。
ここまで読むと思い当たることがあった。
警視庁の国際テロ捜査に関する文書がインターネット上に流出し、その対象になったイスラム教徒が東京都と国に損害賠償を求めた訴訟で、5月31日最高裁が上告を棄却し東京高裁判決の9020万円の賠償が確定したものだった。
情報収集の是非については東京高裁が「テロ防止のためやむを得ない」と判断したのを最高裁が追認したわけだが、日本国内の関心は賠償問題にあったようで、この点はあまり報道されなかったように思う。
■相当思い切った判断
世界各地で続発するテロ事件とイスラム教との関係については、オバマ米大統領が「イスラム」という言葉を使うことを拒否しているように悩ましい問題だ。そうした中で示された日本の最高裁の決定は、相当思い切った判断と海外では受け取られたようだ。
「インディペンデント」の記事も「イスラム教徒は何も悪いことをしなくとも、ただ恐怖心から排撃される」と米政府の情報収集のあり方を告発したエドワード・スノーデン氏の談話を引用して批判的な調子で貫かれている。
しかし、記事に続く読者の書き込みにはまったく逆の反応が見られる。
「日本、よくやった」
「トランプは正しい」
「世界に常識が通用する国があったのは素晴らしい。他の国々も倣うべきだ」
■テロの直接の標的に
その一方で、この記事はイスラム教の世界にも当然伝わったと考えるべきだろう。日本人はイスラム教徒に寛容という彼らの常識は「日本人はイスラム教徒を敵視している」と変わるかもしれない。
これまで日本人は、過激派のテロ事件に「巻き込まれる」ことを懸念していたわけだが、これからはテロの「標的」になることを心配しなければならなくなるかもしれない。 —(木村太郎・ジャーナリスト、東京新聞2016年7月10日)

論説委員のワールド観望 — もろ刃の剣の中国身分証
■一元管理の徹底
中国では「居民身份証」といわれる身分証が、部屋賃貸、口座開設、航空機や高速鉄道利用など生活のあらゆる場面で必要とされる。一方、この身分証には、終身不変の18桁の公民番号が付けられ、国は戸籍や経歴を含むあらゆる個人情報を一元管理できる。日本でも通知が始まったマイナンバー。社会保障や納税での利便性がうたわれるが、情報統制大国の実情を重ね合わせて将来を展望すれば・・・。
中国で身分証による管理は、1985年施行の居民身份証条例により始まった。法改正などを経て、現在は16歳以上の公民はICチップ内蔵のカードの所持を義務づけられている。戸籍を管理する公安当局が付ける18桁の番号は、出身地、生年月日、個人識別番号などを意味する。
中国ではパスポートより身分証が圧倒的に重視され、ホテルの宿泊にも必要だ。日本駐在経験の長い中国紙記者は「日本では搭乗券や切符だけで飛行機や新幹線を利用できるので驚いた。本人かどうかまで確認できず、テロ対策は十分と言えるのか」と話す。裏返せば、身分証による個人情報の一元管理はそれほど徹底しているともいえる。
■父母のような国
思わぬ業界が徹底管理の恩恵に浴している。中国では2009年ごろから日本の消費者金融にあたる「少額貸款業」が認められたが、上海の業者は「50万元(約1千万円)以下の貸し付けなら担保不要で身分証だけで応じることもある」と話す。「身分証情報を押さえておけば、まず踏み倒されることはなく、どこへ逃げても捕まえられる。最悪の場合は家族から取り立てればよい」と余裕の構えだ。
身分証がなくて途方に暮れるケースも。中国紙によると、日本人と結婚した中国人女性が、国籍はそのままなのに、地元当局から「日本の永住資格と身分証を重複して持つことはできない」と誤った情報を伝えられ、身分証を放棄した。その後、中国ではパスポートではホテルに宿泊できず、不便な生活の連続に「これでは死人と同じ」と嘆いている。
上海交通大学の副教授(54)は「いかなる制度にも解決すべき課題は生じる。居民身份証では個人情報保護や人権侵害など克服すべき点もある」と認めるが、巨大な人口を持つ中国で身分証による管理の必要性と有効性を強調する。
上海市の女性(33)は「国は私たちの父母のようなものであり、情報をすべて把握されるのには慣れっこです。でも、悲哀も感じます」と複雑な胸の内を明かした。
■衣の下から鎧も
日本のマイナンバー制度に目を移せば、法制定時には税金、社会保障、災害関連の3分野に限定されていた行政の利用範囲が、金融分野に拡大され、医療、戸籍事業へとなし崩しにされる可能性もはらむ。
中国の古典には「信なれば即(すなわ)ち民任ず」という。お上の言行が一致して初めて民は政治を任せられるが、管理強化へ政府の「衣の下の鎧」が垣間見えるようでもある。「国は父母のようなもの」と安穏としていられるだろうか。 —(加藤直人=上海駐在、東京新聞2015年11月3日)
英国EU離脱
「海の時代」の幕引き — 水野和夫
6月23日、イギリス国民は欧州連合(EU)からの離脱を選択した。想定外の結果に金融・資本市場は激しく動揺した。中でも円は安全資産だとの思惑で一時1ドル=99円台へ急騰し、2年7ヵ月ぶりの円高水準となり、アベノミクスも振り出しに戻った。株式市場も同様で、過剰資本を抱える日本は円安と株高がリンクしているため、日経平均株価は一日で1286円も下落した。
EUが「Europian Union」の略であることから、いつヨーロッパという言葉が用いられるようになったのか、そして、なぜイギリスの離脱が大問題なのかという点を考えると、EUの将来が見えてくる。
「西ローマ帝国が解体してヨーロッパが出現した」(フランスの歴史学者マルク・ブロック)ように、ヨーロッパは地中海世界と北部ヨーロッパが一体化する過程で徐々にその姿を現してきた。
ヨーロッパという概念が最初に姿を現したのは、800年前後である。現在のドイツ、フランス、イタリアの領土を支配していたカール大帝のフランク王国である。ヨーロッパとは中世の創造物であって、イギリスはその概念には含まれていない。
歴史上初のヨーロッパ形成体であるフランク王国は、アラブ人が地中海を閉鎖したことで崩壊した。イギリスのEU離脱の原因の一つが移民問題であり、現在のEUも同じ問題に直面している。
世界史は「陸と海のたたかい」であると定義したのはドイツの政治学者カール・シュミットである。市場を通じて富(資本)を蒐集(しゅうしゅう)するのが「海の国」であるのに対して、「陸の国」は領土拡大を通じて富を蒐集する。どちらも「蒐集」の目的は社会秩序維持のためである。
■大陸統合 脅威に
近代をつくったのはオランダ、イギリス、アメリカでいずれも海の国である。海の国が最も恐れるのは、イギリスの地政学の大家マッキンダーいわく、世界で随一の大陸であるユーラシアが一体化することである。ユーラシア大陸は大き過ぎて海から牽制できないからである。
イギリスが離脱を決めた直前の17日、ロシアのプーチン大統領はサンクトペテルブルクで開いた国際経済フォーラムの演説で、「ユーラシア経済同盟」(旧ソ連5ヵ国で構成)に中国、インドを加えて「大ユーラシア経済パートナーシップ」構想を打ち出し、同時にヨーロッパ諸国にも参加を呼びかけた。
フランスの歴史家L・フェーブルによれば、ロシアもヨーロッパである。イギリス国民の選択は、無意識のうちに自ら「海の時代」に幕を引いたことになる。米大統領選でも民主、共和両党候補ともに環太平洋連携協定(TPP)の見直しを訴えており、21世紀は「陸の時代」に向かっている。グローバリゼーションによって地球が一つになったかにみえたまさにその瞬間、逆向きの力が作動したのである。
空間が拡張していれば利潤率は向上する。逆に縮小に向かえば、採算は悪化する。EU第二の経済規模のイギリスの国民投票で離脱が過半数を占めた途端、ドイツ10年国債利回りがマイナスとなったのはEU経済圏が縮んだからである。金利を厳禁した中世への回帰である。
海の国・日本はすでに2016年2月9日から10年国債利回りはマイナスとなっている。日本と、陸の国・ドイツに共通するのは過剰資本である。過剰資本の国が追加投資すれば、赤字になるか、あるいは既存の資本が不良債権化する。
■闘いの終わり
もちろん、人類史上初のユーラシア統合が成功すれば、ユーラシア諸国の利回り(利潤率)は上昇するであろう。しかし、中国は日独以上に過剰な資本(生産設備)を抱えており、中国は輸出シェアを高めることでしか、持続的成長ができない。それは日本企業の投資採算を悪化させ、日本のマイナス金利を拡大させる。
逆に中国の過剰資本がフル稼働しなければ、中国の金利がマイナスとなる。そうなれば、「蒐集」をめぐる陸と海のたたかいは終わり、「歴史が終わる」ことになる。1992年のイデオロギー闘争としての「歴史の終わり」(アメリカの政治学者フランシス・フクヤマ)宣言が、別の意味で実現することになる。 —(法政大教授、東京新聞2016年7月19日夕刊)